ライネッケのピアノ音楽 第1回
金澤攝
チケット / 全席自由(整理番号順入場)
早期申込 | 前売/当日 | |
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一般 | 2,000円 | 2,500円 |
学生 | 1,000円 | 1,500円 |
Web Live Concert | 500円 |
プレイガイド
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作曲家・ピアニスト・指揮者・指導者の各方面で傑出した功績をあげた全能的な音楽家としてのスケール感は、信じ難いものがある。
音楽史的にはシューマンとブラームスの間に位置するドイツの作曲家であり、スメタナ、ブルックナーと同年生れである。かつてはモーツァルトのピアノ協奏曲のカデンツァやフルートソナタ「ウンディーネ」で知られるのみだったライネッケだが、デジタルの時代となって室内楽曲・交響曲・協奏曲等のCD化が進み、その再評価の気運は確実に高まりつつある。それでもなお、彼の巨大な全貌を窺い知るには程遠い。
特に名ピアニストと謳われたライネッケにとって、当然ながらピアノ音楽が創作活動の中心であったにもかかわらず、その大部分が未だに録音されていないのはなぜか。恐らくはその作品群が余りに膨大なうえ、教育用・子供向けの作品がかなりのウエイトを占めていることも一因だろう。その音楽は明るく、慈しみに満ちている反面、徹底した職人気質に貫かれた厳しさを特長としている。こうした気質はシューマンやブラームスとは異なり、むしろバッハに近い。
ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者として、長年にわたり優れた古典曲や新作を世に紹介し、当代屈指のピアニストとして活躍、教育者としてはライプツィヒ音楽院の名声を世界に拡め、その門下からはグリーグ、リーマン、シンディング、ワインガルトナらを輩出している。明治の世に日本から滝廉太郎が留学したのも、ライネッケが院長を務めていたこの学校だった。
数多くの古典作品の校訂譜を出版し、その神髄に通じていたライネッケは、恐らく自らを音楽史の総括者としての自覚のもとに活動を行なっていたと考えられる。それは個人のオリジナリティを超えた働きであり、単なるアカデミズムの権化ではない。そのことを理解できない人は彼を時代遅れの保守主義者と見たのである。
ライネッケ生誕200年を記念する今回のシリーズは、少年時代から晩年に至る厳選した約60点のピアノ作品を時系列で一望する空前の企画である。
6回にわたるツィクルスは各日共、演奏時間60分余りの2つのステージで構成され、実質12回のコンサートとなる。その最終ステージでは時間枠を拡げ、同時代の作曲家によるライネッケへの献呈作品を集めてこの巨匠の存在感をさまざまな視点から偲んでみたい。
2024.4.3 金澤攝
だが、この巨匠のピアノ音楽史の概要を網羅するには、この2倍程のサイズのツィクルスを組む必要があったのである。この機会を逃がすと今後も演奏されるかわからない多くの作品を思うと、せめて各回に一曲ずつでも作品を加えられないかと考えた。各ステージを10分程度延長することは可能な気がする。
とりあえず、チラシで予告した内容を変更しない形で、用意ができたものを随時加えていくことにした。最終的な予定が立てられないため、追加した作品名は各回のプログラムで明かしていきたい。
私のコンサートでは、かつてのスタジオ・ルンデ以来、基本一人の作曲家をテーマとしてその軌跡を追う、というやり方で一貫してきた。どこから出発してどこへ向かった人生だったのか。そのシナリオ全体、作曲家の歩みそれ自体を一つの作品として提示したい意図からである。
従って、「時系列」は原則となる。ある作品が全体のどこに位置しているかによって、その意味や表現は違うものとなる。前後する作品を知ることで、その作品の成立過程や心情を察することができる。
こうした展示のあり方は、美術館の企画展では当り前とされるが、コンサートで行なうことは容易ではない。音楽は短時間に多くの作品を見て回れないし、演奏者の都合を考えると現実的ではないからである。
この宿命的な事情が、演奏家たちに作曲家の創作史への関心を阻んできたともいえるだろう。一般的なクラシックコンサート,リサイタルに”創作史”という観点はない。ベートーヴェンのピアノソナタ全曲演奏会といった企画さえ、集客や演出効果を理由に順序を入れ替えるケースが多い。私の考えではソナタや交響曲のような曲種ばかりを並べると、作曲家のフォーマルな一面だけにフォーカスするため、”素顔”が見えづらくなる。「楽聖」の偶像はもうたくさんだ。
「時系列」への無関心は結局、歴史認識の欠如に由来する。美術館には学芸員がいるが、コンサートに存在しない違いは大きいのである。知名度の高い作曲家のみが一流の大作曲家で、その他は二流、三流であるかのようなクラシック業界の稚拙な思い込みは、実際の歴史を知らないことによる。知る術がなかった、とも云えるだろう。
傑出した僅かな天才たちが点在していたように見えていた音楽史観は、調べれば調べる程、数多くの才人たちがそれぞれの時代と風土の影響のもと、互いに感化し合い連携して歴史を紡いできた状況が見えてくる。それは大河の流れのようであり、一人が抜けてもその後の流れに変化をきたすような、必然と調和の景観が拡がっている。私の目標は個々の作曲家や作品の発掘・紹介を積み上げていくことでこのヴィジョンを開くことにある。この準備に半世紀を要したと云っていい。
その中でも、音楽史を見通す上でポイントとなる重要なキーマンが幾人か存在する。ライネッケがその一人であることは疑いない。
作曲家の創作史を追体験するプロセスは、あたかも始発駅から終着駅に至る列車の旅のようだ。そこにはさまざまな集落や絶景、秘境駅、中継地等々が現われる。次にどんな展開がみられるのか、予測と期待をもって眺めていくのは楽しい。こうした楽しみに目覚めることで、歴史観へのリンクは急速に深まるだろう。
ライネッケの生年はウィーンでベートーヴェンの「第九」が初演され、没年にはパリでストラヴィンスキーのバレエ「火の鳥」が初演されていた。その長きに亘る創作期間内には、ビゼー,ムソルグスキー,チャイコフスキー,ドヴォルザーク,グリーグらの生涯が収まってしまう。優れた音楽教師であった父の指導に育ち、メンデルスゾーンとシューマンにその才能を称揚された若きライネッケは、彼らの影響下を経て、むしろ時代を遡るような古典的模式をモデルとして、独自の表現領域へと歩を進めた。そこには博愛心をベースにした、純真で童話のような世界観がある。
悩ましきロマン派世代の渦中にあって、それを突き抜けて超然と開花するライネッケの音楽は、シューマンとブラームスを繋ぐドイツ音楽史の系譜の半ばに、かくも広大な領域があったことを証明する。それだけではなく、シューマンとライネッケの間の世代には、十指に余る未だ知られざる巨匠たちが犇めいている。ライネッケ〜ブラームス間もまた然り。
クラシック関係者の大きな誤解の一つは、ロマン主義を主流とした「ロマン派の時代」があったように信じていることである。しかし、19世半ばはあくまで古典主義が王道とされ、ロマン主義を信奉する一派との確執を生じた時代だった。結果的にインパクトのあった「異端」が残り、「主流」が抜け落ちてしまったのである。
ライネッケに代表される「主流」が目指したものは何だったのか。
なお、特に初期作品において、作曲年代とOp.番号の順が一致しない例が散見される。先に取りかかった作品が後で仕上ったり、かなり年数を経て手直ししたものなどがあり、今回はOp.番号の並びを優先させた。
2024.5.17-18
金澤 攝